こんな映画を観た!」カテゴリーアーカイブ

映画の見方がわからない人が感想を書いています。ばんばんネタバレしていきますよ〜!
フェイバリット映画は『遊星からの物体X』。
時々アニメやドラマやドキュメンタリーの感想も入ります。
(特に記載がない場合はDVDでの鑑賞です)
 
このカテゴリーの目次はこちら→こんな映画を観た!

【映画】パーフェクト・ドライバー/成功確率100%の女

タイトル:パーフェクト・ドライバー/成功確率100%の女(←Amazonへのリンク)
公開年:二〇二三年
制作国・言語圏:韓国
監督:パク・デミン
主な関係者:パク・ソダム ソン・セビョク キム・ウィソン チョン・ヒョンジュン
媒体:映画
ジャンル・形式:クライムアクション カーアクション

【ネタバレなし概要】
裏の依頼専門の配送ドライバーが、ある親子を運ぶ仕事をきっかけに、裏社会と権力の両方から追われることになる。見どころは派手な速度そのものより、狭い街路や駐車場の隙間を使った逃走の工夫で、韓国の都市空間を活かした追跡劇として組まれている。

僕はTSUTAYAディスカスにもう一五年くらい登録していて、気になった映画を片っ端からリストに入れている。年間で一〇〇本から三〇〇本は観るから、数年前に登録したこの映画がなぜリストに入っていたのか、もう覚えていなかった。そういう、過去の自分が放り込んだ石が数年越しに戻ってくるような鑑賞には、ときどき妙な当たりがある。この映画はまさにそれだった。

まず感心したのは、カーアクションをアメリカ映画の縮小コピーにしていないことだ。広い道路を高速で飛ばすのではなく、韓国の狭い町、建物が密集した通り、駐車場の隙間、バックを多用しないと抜けられないような窮屈な場所を、そのまま武器にしていた。速さの見世物ではなく、狭さをどう利用するかの知恵比べになっている。だから予算の大小とは別の切実さが出るし、日本でも十分応用できる発想だと思った。

主演のパク・ソダムも、その設計に合っている。日本の感覚だと、いかにも主演らしい華やかな顔立ちではない、と感じる人もいるだろう。だがこの映画では、その少し地味に見える身体が逆に効く。スターの輝きというより、危ない仕事を本当に日常としてこなしていそうな職業感がある。運転の巧さ自体は編集やカメラでいくらでも上手く見せられるが、この映画はそのごまかしを逆手に取って、達人ぶりを神話化するのではなく、狭い空間のなかでどう車体を隠し、どう逃がすかを積み上げていく。車を速さの記号ではなく、都市の隙間を読むための道具として使っている点が面白い。

後半で少年との逃避行に移るのもよかった。ここで映画は、単なるチェイスの反復から、運ぶ相手との関係の映画へ少しずれる。最後は肉弾戦にまで持ち込むが、明るい場所で全部を見せるのではなく、暗闇を利用して身体の動きを曖昧なまま立ち上げる。その見せ方も賢い。開けた場所で英雄的に勝つ映画ではなく、狭くて暗い場所でしぶとく切り抜ける映画なのだということが、最後まで一貫していた。

悪役もよくできていた。単に怒鳴って殴るだけの粗暴犯ではない。黒社会の暴力を使いながら、表向きには行政や警察の顔をかぶって犯罪を隠蔽し、自分から逃げた者を逆に犯人に仕立て上げ、警察権力で追わせる。つまりこの男は、暴力だけでなく制度の物語まで握っている。しかも言葉づかいは丁寧で、譲歩しているように見せた直後に、その約束を平気で破って暴力に移る。その緩急が怖い。表向きの礼儀が逆に支配の道具になっている。ソン・セビョクが演じている。

だからこの映画の緊張は、ただの鬼ごっこでは終わらない。主人公が持っているのは事実だが、悪役は制度を使って公式の現実を作れてしまう。何が真実かではなく、誰が真実を定義できるかの争いになる。そこにまで踏み込むことで、追跡劇に一段深い嫌さが出ていた。

その一方で、終盤からラストにかけては、かなり韓国商業映画らしい癖も出る。ここまで地形、身体、制度、追跡の因果で積み上げてきたのに、最後の最後で観客のストレスを一気に解放するカタルシスへ大きく振る。こういう理屈より気分を優先する外連味(けれんみ)は、僕はあまり好きではない。伏線やギミックに支えられた反転ではなく、説明なしのご都合主義に近いからだ。ただ、この映画は主人公をかなり厳しく追い込み、悪役には制度の後ろ盾まで与えているので、そのまま閉じれば救いは薄すぎる。だから最後だけ因果を緩めてでも出口を作る。その甘さも含めて、商業映画としての機能なのだと思う。

結局、この映画の良さは、派手さそのものではなく、韓国の狭い町でしか成立しない逃走の工夫にある。主演をスターではなく現場の身体として立たせ、悪役を粗暴な怪物ではなく制度の顔をかぶった支配者として作っている。そのあたりはかなりちゃんとしている。終盤の外連味は僕には甘く感じるが、それでも見終わったあとに残るのは、ハリウッドの真似ではない、韓国の窮屈な地形と社会の嫌らしさをきちんとアクションに変えた一本を観た、という感触だった。タイトルはやや安っぽいが、中身は本当によくできている。

【映画】『ゴジラxコング 新たなる帝国』

タイトル:ゴジラxコング 新たなる帝国(←Amazonへのリンク)

公開年:2024年
制作国:アメリカ合衆国
監督:アダム・ウィンガード
主な出演者・関係者:レベッカ・ホール、ブライアン・タイリー・ヘンリー、ダン・スティーヴンス、ケイリー・ホトル
ジャンル:怪獣アクション、SF、アドベンチャー

ネタバレなし概要
「モンスター・ヴァース」シリーズの第5作。前作で激突したゴジラとコングの二大巨頭が、地球内部の未知の領域「ホロウ・アース」から出現した未曾有の脅威に対し、生存戦略としての共闘を余儀なくされる過程を描く。

僕はこれを観て、次はもういいかな、という気分が強く残った。鑑賞中、知らない人物や知らない設定が当たり前の顔で動き、「メカゴジラが云々」という台詞まで出てきたので、僕は本気で「自分の知らない前作が間に挟まっていて、それを見逃したのだ」と思った。ところが鑑賞後に確認すると、見逃しではなく、四年前に映画館で観た前作の内容を、僕がかなり忘れていただけだった。つまりこのシリーズは、前作の細部を覚えている人を標準装備として走っていて、そうでない観客は鑑賞中に自分の記憶を疑う羽目になる。作品が悪いというより、作品が観客に求める暗記量が増えた、という話だ。

初期のハリウッド版ゴジラやキングコングの一作目は、怪獣をなかなか見せない。暗さや雨や煙や遮蔽物で距離を作って、巨大さと恐怖を演出として成立させようとしていた。ところが今作は、最初から堂々と見せる。隠さない。ためない。見せまくる。見せれば盛り上がるだろう、という作りで、見せまくることが必ずしも良いことに繋がらない、という当たり前を丁寧に体感できる。怪獣が多く出るせいで、巨大さは特別な事件ではなく、画面の中の日常になる。人間が小さく見えるはずの場面で、人間はただの背景になり、怪獣もまた背景の常連客になっていく。スケールが消えるのは、派手さが足りないからではなく、派手さが多すぎて希少性がなくなるからだ。

場所の使い方も似た問題を抱えている。舞台は地底世界で展開しているはずなのに、物語は地上と地底を激しく行き来する。そのせいで、地底にいる切実さが固定されない。本来なら、戻れない、逃げられない、補給が難しい、といった制約があって、そこでの行動に重みが出る。だが行き来が軽いと、地底はただの観光地の一つになる。場所が「ここでしか起きない」必然にならず、「次の場面に切り替えるための背景」になってしまう。

重さが薄いのは、死や傷の扱いにも出ている。何が起きているかは分かりやすいのに、葛藤が薄い。選択が取り返しのつかない結果を生む手触りが弱い。死も重く捉えられない。ブラックコメディとして軽くしているわけでもなく、ただ次へ進むために軽く処理されているように見える。キングコングの致命的な傷ですら、すぐに代替物としての強化アームで埋められ、損失が強化へ変換される。傷が代償ではなく、装備更新の入口になる。これでは切実さが立ち上がる余地がない。

人間パートも同じ方向だ。博士、ユーチューバー、超能力を持った子供などが配置されるが、役割以上の内面はあまり描かれない。人物が悩んで選び、関係が変わり、そこに代償が残る、という描写が弱いので、人間は説明と誘導とリアクションの係員になる。キャラクターというより担当部署で、脚本が必要とする業務を順番にこなしていく感じがする。

映像の質感も、軽さを後押ししている。CGの輪郭線がパッキリしていて、発色が綺麗すぎる。陰影や空気のにじみが少ないので、物体の質量というより、デザインが前に出る。大人が好む、曖昧さや陰影で重さを作る快楽が薄くなり、その分、作り物っぽさが増して子供向け感が加速する。明快さのために削ったものが、結果として作品の重さを削っている。

一作目と二作目は楽しめたし、三作目も子供向け寄りでも、つまらないとまではいかなかった。だから今作も観た。しかし今作で、ブランドがどこへ向かうかがはっきり見えた。ゴジラが世界的なアイコンになったのは事実だが、その代償として、畏怖や重量や取り返しのつかない感じまで薄味になり、便利で分かりやすい記号へ整形されていく。これは品質が落ちたというより、狙う品質が別の場所へ移動したのだろう。広く届く代わりに、僕が欲しかった重さは契約から外れた。だから次作は観ない、で終わる。

【映画】ニュー・シネマ・パラダイス

タイトル:ニュー・シネマ・パラダイス(←Amazonリンク)
原題:Nuovo Cinema Paradiso
公開年:一九八八年
制作国 言語圏:イタリア
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
主な関係者:フィリップ・ノワレ ジャック・ペラン サルヴァトーレ・カシオ エンニオ・モリコーネ
媒体:映画
ジャンル 形式:映画史への回想を装った人生回顧劇

ネタバレなし概要
南イタリアの小さな村で映画館に魅せられた少年が、映写技師との交流を通じて映画の世界に引き寄せられ、やがて村を離れて映画監督として成功する。数十年後、彼はかつての恩人の訃報をきっかけに故郷へ戻る。そこで再び映画と向き合うことで、過去の選択と人生の時間を静かに見つめ直すことになる。

僕が初めて完全版を見たのは二〇〇一年だった。上京して二年目、まだ未来の可能性が無限にあると感じていた頃だ。あの時は完全に若いトトの側に立って見ていた。地方から外へ出ていく青年の物語として、自分の状況と重なり、主人公と自分がほとんど同一人物のように感じられた。映画のラストで主人公が号泣する場面を見て、こちらも同じように泣いた。あのときは、これから自分も同じような人生を歩くのだろうかという予感と恐怖が混ざった涙だった。

その後、二〇二〇年に現在もっとも流通している劇場公開版を見た。すると全く泣けなかった。物語は理解できるし、映画としての完成度も高い。しかし内容があまりにも一般化されているように感じた。つまり誰にでも当てはまる「映画が好きだった少年の成功物語」に整理されてしまっている。すると主人公は僕自身ではなくなる。誰かの良い話を見ているだけになる。劇場版は普遍性(誰でも理解できる形)を強めた代わりに、個々の人生の痛みの部分をかなり薄めている。

完全版はその逆だ。多くの人が「いらない」と言う追加の恋愛パートが入ることで、物語が急に居心地の悪いものになる。あの部分があると、この映画は郷愁の物語ではなくなる。人生の不可逆性、つまり一度切断された時間は二度と戻らないという構造が露骨に見える。映画の検閲で切り取られたキスのフィルムが、主人公の人生で失われた愛と重なるからだ。

ラストで主人公が見ているのは、映画のカットではない。自分の人生のカットである。検閲で切られたキスの連続は、人生で起こらなかった出来事の象徴になっている。映画の言葉で言えばメタファー(象徴)、つまり映画の中の出来事が登場人物の人生そのものを指し示す構造だ。だから彼は泣く。懐かしいからではない。戻らないからだ。

今回、完全版を二十五年ぶりに見て決定的に違ったのは、僕の立場が変わっていたことだった。以前は明確に若いトトの側だった。まだ人生が始まったばかりの観客だ。今回は完全に年老いたトトの側になっていた。つまり物語の未来を知っている側だ。あのとき無限にあるように思えた可能性が、今ではすでに編集されている。

この映画の核心は「人生の編集」である。編集とは、選ばれたものと捨てられたものが決定することだ。映画ではフィルムを切ることで物語が成立する。人生でも同じことが起きる。選ばなかった出来事は起こらないまま消える。完全版はその事実を正面から見せる。

アルフレードという人物も、その編集を象徴している。多くの人にとって彼は優しいメンター(人生を導く年長者)として見えるだろう。だが僕には少し違って見えた。彼はトトに「帰るな、振り返るな」と言う。成功するための助言だが、同時に人生の可能性を切断する言葉でもある。もし自分が同じ立場なら、選択する権利は自分にあると言って反発したかもしれない。彼の言葉は優しさと暴力が混ざっている。

そしてラストの涙だ。あれは映画の感動ではない。不可逆性への反応である。若さ、愛、思い出、人生で最も大切だったかもしれないもの。そうしたものがもう戻らないという理解に対する涙だ。今回見ていて感じたのは、あの場面が自分自身の人生の断面に重なってしまうことだった。

劇場公開版はその痛みをかなり和らげる。だから普遍性は高くなる。多くの人が感動できる映画になる。しかし完全版は逆だ。物語が個人の人生に近づくほど、観客は居心地の悪さを感じる。男女でも受け取り方がかなり変わるだろう。誰にでも当てはまる映画ではなくなる。

今回この映画を見て強く泣いたのは、たぶんその距離の問題だ。昔は未来の物語として見ていた。今は人生の編集済みフィルムとして見ている。映画のスクリーンに映っていたのはトトの人生だが、同時に自分の人生の断面でもあった。完全版のラストは映画史へのオマージュではなく、人生という編集不可能なフィルムを見せる装置なのだと思う。

【映画】『マークスマン』

TSUTAYA DISCASで予め登録した映画DVDを心太式に僕宅に送られてくるようにしているのだが、何百本と登録しているため、数年前に登録したものは「僕は何故こんなの観ようと思ったのか?」覚えていないことが多い。
今作も全く覚えていなくて、冒頭、メキシコで少年が恋心を抱く少女宅の前に恋文を置くシーンにはドキドキしたものだが、何だかんだあって少年とその母親がメキシコ国境でリーアム・ニーソンと出会うシーンで、
リーアム・ニーソンが出てくるということは七〇点を超えることはないけど、逆に七〇点を下ることはないな。と思ったら、まったくもってそんな感じの映画だった。
(ジェイソン・ステイサム登場だったら八〇点は固かったんだけど)
それでもまあ、悪くはなかった。

【映画】『えんとつ町のプペル』

卒なくできていて破綻がない。いくつかの仕掛けでは感心させられたが、全体として凡庸。
作者は、本質を見抜いて再構成する能力は非常に高いけれど、それに反し作家性をあまり感じることができなかった(という作家性?)。
もっと言うと作家としての偏り自体が「作家ってこんな偏りがあるもんじゃん」と計算して作られている印象。小賢しい。
ちょっと破綻しているほうが「ええもん見せてもらった」ってなるんだけど、完全にコントロールされているぶんだけ小さくまとまった印象を受けてしまう。

【映画】『ドライブ・マイ・カー』

三層の物語が交差する、三次元方程式のような複雑なプロット。
「三時間って長い!」と思ったけれど、観てみるとなるほどそれだけの時間を必要とする重厚な物語。

原作映画がどれだけ生かされているのか、村上春樹を読んでみたくなった。村上春樹、読んだことないけど。
劇中劇のチェーホフ『ワーニャ伯父さん』、七年前読んだのに何も記憶に残ってなかったから、読んでもすぐ忘れるんだろうけど。

【映画】『ファイナル・プラン』

リーアム・ニーソン主演のクライムアクション映画。
出だしが地味であまり期待していなかったのだが、観たら意外と面白くて最後まで引き込まれてしまう。
リーアム・ニーソン映画は時折こんな幸せな出会いがあるから必ずチェックするようにしている。
ただしせっかく面白くなりかけたいろんな伏線が途中から未消化のままになってしまうのも無駄にキャストが豪華なのもいつものリーアム・ニーソン映画っぽい。
リーアム・ニーソンも今年七〇歳か!

【映画】『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

朝イチで八時から観に行って映画館は満員だった。
スパイダーマンといえば僕にとって石ノ森章太郎原作の特撮スパイダーマンが印象強いのだけれど、それがまたダサかった。巨大ロボットでモンスター教授と戦う。「勘弁してくれ〜」という感じ。

だけど二〇〇二年のサムライミ版スパイダーマンは衝撃的だった。ぶら〜んって糸でぶら下がっていただけのスパイダーマンが、ビル街を空を飛ぶように移動する、映像の格好よさ。ヒロインが可愛くないところを除いて完璧だった。

一番最近にリブートされたスパイダーマンは一作目から過去最高レベルで「もうこれ以上のないやろ〜」と思ってたら更に二作目が面白く、今日の三作目はリブート後どころかこの二〇年間のスパイダーマン映画の総決算とも言える内容。

今回は一人で観に行ったけど、リブートされる毎、そのとき誰かと映画を観に行っていたときのこと、思い出とスパイダーマンを重ね合わせ、何処かで分岐したマルチバースの自分のその後を思い、泣けて泣けて仕方なかった。ずっと涙をぬぐいながら観ていた。今年一番泣いた映画。

【映画】ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞『DUNE/デューン 砂の惑星』


大阪ではやっぱり、芸人さんとコラボして「デューン!」ってギャグやってんのかな。

フランク・ハーバート原作とデビット・リンチ映画の両方を五年前に目を通したはずなのに記憶の減価償却が終了して、な〜んも覚えてなかった。
新鮮な気持ちで楽しめた。

ナウシカやラピュタやもののけ姫と酷似した演出やプロット設定だったりするけど、これは逆に宮崎駿氏がハーバート原作の影響を受けているわけで、さらに今作を宮崎駿映画に影響を受けたビルヌーブ監督が作っているので、影響が影響を繰り返している。

スター・ウォーズと設定が似ているけれど、そもそもルーカスがハーバート原作の影響を受けているので仕方がない。
でも今作の映画演出はもちろんスター・ウォーズの影響を受けている。

『ロード・オブ・ザ・リング』を映画館で観たとき
「これはファンタジー映画の金字塔で、一〇年に一度クラスの大作映画やな〜」
って思ったのと同じくらいの心を動かされた。
『DUNE/デューン 砂の惑星』はSF映画の金字塔になり得る映画だ。
コケて今作よりあと作られなかったら知らんけど。

【映画】『セミマゲドン』

ひどい映画と聞いていたし、ひどい映画は散々観てきたので、正直こんなもんだろうと思うのだけれど、セミの生態と構造がここまで反映されていないと、セミ好きの僕は腹立ちがおさまらない。
セミの幼虫の前足がシャベル状になってないし、あんな飛び方しないし、鳴き方がおかしい。
そもそも巨大化したセミなら音そのものが武器になり得るのに、通常セミと同じくらいの鳴き声って何なんだ。
製作者がセミに対する愛がない!
セミじゃなければここまで腹が立たなかったのに。

映画『メリー・ポピンズ リターンズ』

なるほど、前作の続編としてはよくできている。
現実(お父さん)パートと子供(幻想・メタ世界)の絡め方が職人芸。
大学でミュージカル部に入っていたことがあるのでミュージカルは好物だったりする。

いきなり踊りだすって違和感ない?とよく言われるが、僕から言わせれば少年漫画の物語の途中でいきなりルールのあるバトルを始めるのだって様式美やんけ。
現実社会でバトル始めることなんていきなり踊りだすのと同じくらいの頻度やろ〜日常で僕はよく踊るけどバトルすることなんて滅多にない。

【映画】『ある日どこかで』

リチャード・マシスン原作のSFラブストーリー映画。
現在の物語ではタイムスリップという概念が説明無しで起こるのに、この映画の時点(一九八〇)ではかなり詳細に説明している。同じ八〇年代の『バック・トゥー・ザ・フューチャー』でも詳細に説明していた。『恋はデジャ・ブ』(一九九三)『バタフライ・エフェクト』(二〇〇四年)ではギミックなしに時間を移動できる。『君の名は』(二〇一六)は「もうこれはこういうものですよ」扱いだった。

この映画で主人公は一九七〇年代から六〇年前にタイムスリップするのだが、その違いは相当なもので、テレビもないラジオもない車もそれほど走ってない(馬車移動の時代)。
今で言えば『三丁目の夕日』にタイムスリップするようなものだが、僕の感覚では(まだ生まれてはいないけれど)一九六〇年代は陸続きで頑張れば思い出すことができそうなひと昔前。
文明の発展はすごいというけれどこの六〇年は伸び悩んでいるような気がする。

聴診器をあてるだけで病気を診断し、病名や原因がモニターに映しだされるドラえもんの「おいしゃさんかばん」みたいなのはまだ?
新型コロナ予防に「石鹸でよく手を洗いましょう」「マスクをしましょう」って……僕が想像していた未来の二一世紀にはまだ到達していない。

【映画】『キング・オブ・コメディ』

スタンダップコメディアンのつまらないギャグを観客が爆笑していて……滑っているのが一回転して受けているのか、四〇年前の映画だから笑えなくなってしまったのか、アメリカのギャグセンスが日本と異質過ぎるのか、どう捉えたらいいのかわからなかった。

ドラマ内ギャグは観客がメタで観てしまうから受けにくいのは確かだろうけど……
Amazonプライムのドラマ『マーベラス・ミセス・メイゼル』は1950年代の女性スタンダップコメディアンを描いたものだけれども、日常の(舞台の外の)やり取りは笑えるけれど、舞台上のギャグはそれほど面白くない。

【映画】『劇場版 ドーラといっしょに大冒険』

『さるとびエッちゃん』みたいな野生児の少女が都会(ハリウッド)の高校に転校するカルチャーギャップドタバタから途中で一転、ジャングルのインカ帝国遺跡を求めて冒険する話に。
いいところもたくさんあるんだけど、元のアニメを観ていた層を引きずったせいか子供向け過ぎる。
インディー・ジョーンズのように全ての年齢向けにしてもよかったのでは。

【映画】『チャーリーズ・エンジェル』ユナイテッド・シネマとしまえんで映画鑑賞

完全な新作/リブートではなく、世界観を共有する続編か……『ジョン・ウィック』みたくこの映画は我々の世界とは異なるチャーリーズ・エンジェルの組織が実在する平行宇宙なわけで。

『007』や『ミッション・インポッシブル』もそうなんだけど、この手の映画は作品単体で観ても完結してなく、前作までの映画あるいは元ネタTV版をある程度知っていて世界観を共有していないと100%楽しめたとは言えない。
マベール映画どころではない、年々映画を観るためのハードルが高くなっているような気がする。

【映画】『きみと、波にのれたら』

湯浅政明監督の映画は『マインド・ゲーム』しか観たことがなかった。

リア充のカップル描写は何も共感するところがなかったけれど、めくるめく映像の美しさで観続けさせるその職人的なうまさに舌を巻く。

男が死んで女が落ち込むのを見て、ようやく感情移入できるようになる。

水描写がとてもよかった。
最近のアニメの水描写はCG表現が多用されているのはいいとして、キャラクターがいかにもアニメしている絵で水だけテラテラしているのが気持ち悪い( 例えば細田守氏)。
新海誠氏ならそもそもの地の絵がCGだから違和感がないのだが。
そういう違和感を一切感じさせないうえ、タイトルのように「波に乗れている」シーンがかっこよかった。

その他コーヒー、卵など話のポイントポイントになる細部の描写がじつにいい。
好きな映画かというと微妙で普通だったけれど、絵や物語など全ての職人的なうまさにひたすら感心。