【映画】ニュー・シネマ・パラダイス

タイトル:ニュー・シネマ・パラダイス(←Amazonリンク)
原題:Nuovo Cinema Paradiso
公開年:一九八八年
制作国 言語圏:イタリア
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
主な関係者:フィリップ・ノワレ ジャック・ペラン サルヴァトーレ・カシオ エンニオ・モリコーネ
媒体:映画
ジャンル 形式:映画史への回想を装った人生回顧劇

ネタバレなし概要
南イタリアの小さな村で映画館に魅せられた少年が、映写技師との交流を通じて映画の世界に引き寄せられ、やがて村を離れて映画監督として成功する。数十年後、彼はかつての恩人の訃報をきっかけに故郷へ戻る。そこで再び映画と向き合うことで、過去の選択と人生の時間を静かに見つめ直すことになる。

僕が初めて完全版を見たのは二〇〇一年だった。上京して二年目、まだ未来の可能性が無限にあると感じていた頃だ。あの時は完全に若いトトの側に立って見ていた。地方から外へ出ていく青年の物語として、自分の状況と重なり、主人公と自分がほとんど同一人物のように感じられた。映画のラストで主人公が号泣する場面を見て、こちらも同じように泣いた。あのときは、これから自分も同じような人生を歩くのだろうかという予感と恐怖が混ざった涙だった。

その後、二〇二〇年に現在もっとも流通している劇場公開版を見た。すると全く泣けなかった。物語は理解できるし、映画としての完成度も高い。しかし内容があまりにも一般化されているように感じた。つまり誰にでも当てはまる「映画が好きだった少年の成功物語」に整理されてしまっている。すると主人公は僕自身ではなくなる。誰かの良い話を見ているだけになる。劇場版は普遍性(誰でも理解できる形)を強めた代わりに、個々の人生の痛みの部分をかなり薄めている。

完全版はその逆だ。多くの人が「いらない」と言う追加の恋愛パートが入ることで、物語が急に居心地の悪いものになる。あの部分があると、この映画は郷愁の物語ではなくなる。人生の不可逆性、つまり一度切断された時間は二度と戻らないという構造が露骨に見える。映画の検閲で切り取られたキスのフィルムが、主人公の人生で失われた愛と重なるからだ。

ラストで主人公が見ているのは、映画のカットではない。自分の人生のカットである。検閲で切られたキスの連続は、人生で起こらなかった出来事の象徴になっている。映画の言葉で言えばメタファー(象徴)、つまり映画の中の出来事が登場人物の人生そのものを指し示す構造だ。だから彼は泣く。懐かしいからではない。戻らないからだ。

今回、完全版を二十五年ぶりに見て決定的に違ったのは、僕の立場が変わっていたことだった。以前は明確に若いトトの側だった。まだ人生が始まったばかりの観客だ。今回は完全に年老いたトトの側になっていた。つまり物語の未来を知っている側だ。あのとき無限にあるように思えた可能性が、今ではすでに編集されている。

この映画の核心は「人生の編集」である。編集とは、選ばれたものと捨てられたものが決定することだ。映画ではフィルムを切ることで物語が成立する。人生でも同じことが起きる。選ばなかった出来事は起こらないまま消える。完全版はその事実を正面から見せる。

アルフレードという人物も、その編集を象徴している。多くの人にとって彼は優しいメンター(人生を導く年長者)として見えるだろう。だが僕には少し違って見えた。彼はトトに「帰るな、振り返るな」と言う。成功するための助言だが、同時に人生の可能性を切断する言葉でもある。もし自分が同じ立場なら、選択する権利は自分にあると言って反発したかもしれない。彼の言葉は優しさと暴力が混ざっている。

そしてラストの涙だ。あれは映画の感動ではない。不可逆性への反応である。若さ、愛、思い出、人生で最も大切だったかもしれないもの。そうしたものがもう戻らないという理解に対する涙だ。今回見ていて感じたのは、あの場面が自分自身の人生の断面に重なってしまうことだった。

劇場公開版はその痛みをかなり和らげる。だから普遍性は高くなる。多くの人が感動できる映画になる。しかし完全版は逆だ。物語が個人の人生に近づくほど、観客は居心地の悪さを感じる。男女でも受け取り方がかなり変わるだろう。誰にでも当てはまる映画ではなくなる。

今回この映画を見て強く泣いたのは、たぶんその距離の問題だ。昔は未来の物語として見ていた。今は人生の編集済みフィルムとして見ている。映画のスクリーンに映っていたのはトトの人生だが、同時に自分の人生の断面でもあった。完全版のラストは映画史へのオマージュではなく、人生という編集不可能なフィルムを見せる装置なのだと思う。