【映画】『ゴジラxコング 新たなる帝国』

タイトル:ゴジラxコング 新たなる帝国(←Amazonへのリンク)

公開年:2024年
制作国:アメリカ合衆国
監督:アダム・ウィンガード
主な出演者・関係者:レベッカ・ホール、ブライアン・タイリー・ヘンリー、ダン・スティーヴンス、ケイリー・ホトル
ジャンル:怪獣アクション、SF、アドベンチャー

ネタバレなし概要
「モンスター・ヴァース」シリーズの第5作。前作で激突したゴジラとコングの二大巨頭が、地球内部の未知の領域「ホロウ・アース」から出現した未曾有の脅威に対し、生存戦略としての共闘を余儀なくされる過程を描く。

僕はこれを観て、次はもういいかな、という気分が強く残った。鑑賞中、知らない人物や知らない設定が当たり前の顔で動き、「メカゴジラが云々」という台詞まで出てきたので、僕は本気で「自分の知らない前作が間に挟まっていて、それを見逃したのだ」と思った。ところが鑑賞後に確認すると、見逃しではなく、四年前に映画館で観た前作の内容を、僕がかなり忘れていただけだった。つまりこのシリーズは、前作の細部を覚えている人を標準装備として走っていて、そうでない観客は鑑賞中に自分の記憶を疑う羽目になる。作品が悪いというより、作品が観客に求める暗記量が増えた、という話だ。

初期のハリウッド版ゴジラやキングコングの一作目は、怪獣をなかなか見せない。暗さや雨や煙や遮蔽物で距離を作って、巨大さと恐怖を演出として成立させようとしていた。ところが今作は、最初から堂々と見せる。隠さない。ためない。見せまくる。見せれば盛り上がるだろう、という作りで、見せまくることが必ずしも良いことに繋がらない、という当たり前を丁寧に体感できる。怪獣が多く出るせいで、巨大さは特別な事件ではなく、画面の中の日常になる。人間が小さく見えるはずの場面で、人間はただの背景になり、怪獣もまた背景の常連客になっていく。スケールが消えるのは、派手さが足りないからではなく、派手さが多すぎて希少性がなくなるからだ。

場所の使い方も似た問題を抱えている。舞台は地底世界で展開しているはずなのに、物語は地上と地底を激しく行き来する。そのせいで、地底にいる切実さが固定されない。本来なら、戻れない、逃げられない、補給が難しい、といった制約があって、そこでの行動に重みが出る。だが行き来が軽いと、地底はただの観光地の一つになる。場所が「ここでしか起きない」必然にならず、「次の場面に切り替えるための背景」になってしまう。

重さが薄いのは、死や傷の扱いにも出ている。何が起きているかは分かりやすいのに、葛藤が薄い。選択が取り返しのつかない結果を生む手触りが弱い。死も重く捉えられない。ブラックコメディとして軽くしているわけでもなく、ただ次へ進むために軽く処理されているように見える。キングコングの致命的な傷ですら、すぐに代替物としての強化アームで埋められ、損失が強化へ変換される。傷が代償ではなく、装備更新の入口になる。これでは切実さが立ち上がる余地がない。

人間パートも同じ方向だ。博士、ユーチューバー、超能力を持った子供などが配置されるが、役割以上の内面はあまり描かれない。人物が悩んで選び、関係が変わり、そこに代償が残る、という描写が弱いので、人間は説明と誘導とリアクションの係員になる。キャラクターというより担当部署で、脚本が必要とする業務を順番にこなしていく感じがする。

映像の質感も、軽さを後押ししている。CGの輪郭線がパッキリしていて、発色が綺麗すぎる。陰影や空気のにじみが少ないので、物体の質量というより、デザインが前に出る。大人が好む、曖昧さや陰影で重さを作る快楽が薄くなり、その分、作り物っぽさが増して子供向け感が加速する。明快さのために削ったものが、結果として作品の重さを削っている。

一作目と二作目は楽しめたし、三作目も子供向け寄りでも、つまらないとまではいかなかった。だから今作も観た。しかし今作で、ブランドがどこへ向かうかがはっきり見えた。ゴジラが世界的なアイコンになったのは事実だが、その代償として、畏怖や重量や取り返しのつかない感じまで薄味になり、便利で分かりやすい記号へ整形されていく。これは品質が落ちたというより、狙う品質が別の場所へ移動したのだろう。広く届く代わりに、僕が欲しかった重さは契約から外れた。だから次作は観ない、で終わる。